釜石~石巻沿岸部 駆け足視察報告
豊橋技術科学大学 社会連携推進本部 コーディネータ 上田です。
2015年7月4日(土)に仙台・松島で学生時代の同窓会があった関係で、7月2日~3日で三陸沿岸を回ってきました。素人が駆け足で見てきただけですが、写真や補足資料でご紹介致します。
7/2に釜石とその北隣の大槌町、7/3に沿岸部を移動して陸前高田と石巻、女川町の復興状況を見ました。
1)今回の視察先と南三陸沿岸の交通事情
三陸海岸の南部の現在の交通事情です。JR山田線、大船渡線、気仙沼線は鉄道運行は無く高速バス運行(BRT:Bus Rapid Transit)の代替運行ですが、将来にわたって高速バス運行が継続されるという報道もあります。
釜石駅前でレンタカーを借り、市街地の北隣の大槌湾に向かいました。下記の図面が東日本大震災時の大槌湾の津波被害状況です。釜石市鵜住居(うのすまい)地区の波高が最も高く、地震発生34分後に5.6mの第一波の後、37分後に8.8mの第2波、44分後に6.2mの第3波と繰り返し襲来しています。
下記が鵜住居地区の詳細図です。画面中央右の青線囲みエリアの釜石東中学校、鵜住居小学校の生徒が校舎から南南西の避難先の高台を更に越えて避難し、難を免れました。一方、図面中央赤字楕円の防災センター(標高4.3m)は過去の津波浸水域にもかかわらず、その名前から「津波避難先」との誤解を生み、69名の方がここで命を落としました。
釜石東中学校、鵜住居小学校の生徒、児童たちが避難した経路で、ゆるやかな坂が長く続きます。
釜石東中学校 鵜住居小学校校舎付近の嵩上げがまだ進行中でした。高さは約10mでした。
大震災の前から釜石の防災教育を進めて来られた群馬大学の片田先生(豊橋技術科学大学のご出身です)の「想定外を生き抜く力」で提唱されている避難三原則。津波災害に限らず防災教育、命を自ら守る心構えとして肝に銘じたいと思います。
参考までに2014/7時点の釜石都市計画被災市街地復興土地区画整理事業の計画図(案)を抜粋します。
「かまいし復興レポート」から震災以降平成27年5月までの応急仮設住宅入居戸数の推移を参考までに掲載します。被災者入居戸数でみても最大時の7割を越える戸数が5月時点でも仮設住宅を利用され、まだまだ復興が道半ばである様子が見て取れます。
市街地が全壊した大槌町の市街部の地図です。被災した旧庁舎は当面の現状保存が決まりました。
あの日の悲惨な状況を物語る旧庁舎です。庁舎の裏側では約10mの嵩上げ工事中でした。その後ろの森は城山公園です。
新庁舎は被災した旧大槌小学校を補強改修し4階は物資備蓄倉庫とし3日分の電力を供給する 非常用発電機や12トンの貯水槽を備えるなど防災対応の構成となっています。高台の城山公園に行く途中から新庁舎を見下ろしています。
この日は釜石駅前から徒歩で3分の民宿に宿泊。床上浸水まで被災し廃業しようかとも思ったが、復興支援者の方々からの強い希望で改修して営業再開し頑張っているとのことでした。それぞれの方の思いが復興を支えています。
4)復興街づくり、かさ上げ工事が本格化する陸前高田
翌朝、三陸鉄道南リアス線の始発に釜石駅から乗り盛駅まで、ここから高速バス運行(BRT:Bus Rapid Transit)に乗りかえ気仙沼まで。たくさんの高校生が乗り換えをして通学をしていました。
バスで陸前高田に入ると広大な嵩上げの景色が広がります。山から市街地に土を運び出すのは、総延長3キロのベルトコンベヤーにより嵩上げ工事が今も大規模に進められていました。
陸前高田の3×4km程の広大な平野部は壊滅で今もベルトコンベアが延々と続き、嵩上げ工事が続いていました。途中「奇跡の一本松」バス停があり、坂道からは一本松が遠くに望めました。石巻に午前中に着くためバスの中からの撮影です。
気仙沼(宮城県)でバスを乗り換え、南三陸町経由でJR石巻線の前谷地までバス移動。ここからJR石巻線に乗り換え石巻に入りました。一度東北本線や東北新幹線に乗り換えた方が早い行程でしたが、今回はできるだけ沿岸部の公共交通機関での移動としました。
5)石巻市 旧大川小学校
石巻からはレンタカーで新北上川河口に近い、旧大川小学校の被災地跡をめざします。
ご存じのように旧大川小学校は校庭にいた児童78名中70名が死亡・4名行方不明、教職員11名中10名死亡 生存率5.6%という悲惨な事故の現場です。校庭に避難した14:50から津波に呑まれた15:35までの行動、引率が今も問題になっています。
今回は大川小学校で娘さんを亡くされご自身も女川中学校の教員でいらした佐藤敏郎氏と事前に連絡を取り、現場にご足労頂きご説明を伺いました。佐藤氏は私が所属するNPOが主催した愛知県西尾市での講演会(2014/11/28にNHKスペシャル東日本大震災「大川小学校・遺族たちの3年8ヶ月」で放映)でお会いして名刺交換させて頂いており、今回お願いしていました。
佐藤氏から現場を歩きながら説明を伺いました。子供達の命を守る、ということが中心になっていたら、少しでも高い場所に逃げるという津波防災の基本が中心になっていたら守れたいのち。残された方同士が責めあうのでは無く、この教訓を正しく活かさなければなりません。
石巻市街に戻り、高台の日和山からまだ復興半ばの平野部を見下ろします。
市街地は被災した建物もまだ残っていました。
<感想>
2011年3月11日から間もなく4年半。私自身の東北訪問は震災の年の5月連休に仙台や七ヶ浜町の友人のお見舞いだけでした。今回、駆け足でまた極一部ではありましたが、沿岸部を自分の目で見ることができました。津波被害を被った場所は大方がまだ嵩上げ工事中で、住む場所と生活の復興、生業の復興はまだまだ道半ばであることを実感しました。
被災地を思い自分のできること(東北の物産品の購入やまた東北を訪れること)、防災のために自分が住む地域でできることを考え続けたいと思います。(記:上田)